日光ではじめて仏教を開いた勝道上人(しょうどうしょうにん)
最重要資料「日光開山碑」のダイジェストに続き、ナンバー2の資料を紹介します
その名も
補陀洛山建立修行日記
(ふだらくさんこんりゅうしゅぎょうにっき)
ダイジェスト版のオリジナル現代語訳も書いておきます
このナンバー2は、勝道の弟子4人が書いたとされていますが・・・こんな声も
- なんらかの目的で作られた偽物だよね
- 蛇が橋になったとか、4色の雲が輝いたとか、ファンタジーが多いからちゃんとした歴史ではないよね
- 実際に書かれたのは、勝道が生きた奈良時代じゃなくて、もっとあとの鎌倉時代だよね
という説が多いのです
もちろん
- 偽物っていうけれど、すべて偽物で片付けるのはマズいよね
- 実際に見た人じゃなければ、書けない表現とかあるよ
とかの反論もあります
これから新しい資料がでない限り決着はつきそうもないですが、ナンバー2です
偽物っぽい可能性も理解した上で、中身を抑えておくのは大切と思いませんか
ということで、「勝道上人が生きた時代 「補陀洛山建立修行日記」をめぐって(佐藤 壽修)」「日光開山 勝道上人事跡の謎」などを参考に、さらにゆるいオリジナル現代語訳を書いておきます
場所とかはすべて令和版です
ちっちゃなころから仏の道(生まれてからハタチまで )
- 勝道上人は栃木県出身で、若田さんといいます
- 先祖は、垂仁(すいにん)天皇の皇子です、ただの人ではなく皇族の血を引いたおぼっちゃんですね
- 先祖(皇子)は、もともと伊勢神宮にいたが事情があって栃木へ、目の病気を患い都に帰れなくなり、そのまま栃木で暮らしました
- 何代かあとに高藤さん夫婦 登場、栃木市 出流山万願寺(いずるさんまんがんじ)があるところらへんで、岩穴に千手観音っぽい岩があって、子供を授かるように祈ったら、まじで奥さまが妊娠
- 生まれたのが勝道上人です
- 7歳のときに、明神天使(みょうじんてんし)ってのが出てきて「仏の道、がんば!」と励まされる
- そして
グレてハタチで家出
ほぼ修行の20代、ついに正式な僧侶に
- 家出後、両親が祈った出流山万願寺に行って、4年修行(親的には行方不明)
- 鹿沼市の横根山に行って3年 修行
- 栃木市 薬師寺(いまは跡しかない)に戒壇(かいだん、正式な僧侶になるための試験所とか教習所みたいな感じ)ができて「こんな近所にラッキー」とそっこう行く
- 有名な鑑真(がんじん)の弟子が先生だったので、その弟子になり27歳で正式な僧侶に
- このときに勝道の名前もGETし、さらに5年修行
男体山に登り、日光に仏教をひらく(日光山ここにはじまる)
- 日光へ行って、大谷川を渡ろうとしたらムリだった
- が、深沙大王(じんじゃだいおう)という鬼の神が現れていきなりなぜか蛇を放ち、それが橋になったので川を渡れた(のちの神橋)
- 聖地 四本龍寺(しほんりゅうじ)を建てる
- 男体山のてっぺんを目指し、3度目の正直でついに登る(3度目は弟子もいっしょ)
男体山制覇したその後(聖地をばんばんつくる)
- 中禅寺湖に行って、小舟をつくって弟子らと遊覧、めっちゃ気に入って住みはじめる
- 中禅寺を建て、さらに立木観音像もつくり、4年過ごす
- さらに不動明王とか5人集が夢にでてきて、仏像をつくる
- 中禅寺湖にある小島にもしばらく住む、遠くで活躍を聞いた桓武天皇は勝道をグンマ—の講師(仏教の先生)に任命、その小島を上野島(こうづけしま、つまりグンマー島)を名付けた
- 四本龍寺に権現(ごんげん、仏が変身した神さま)をまつった
- かつてお世話になった明星天使と深沙大王を、神橋近くにまつる(神社をつくる)
- もう一回男体山に登る、そのときに3人の神と出会う(のちの男体山、女峰山、太郎さんの神)
- 日光東照宮近くの仏岩を自身の墓と決め、83歳で亡くなる
- 勝道の死後、弟子達が菖蒲ヶ浜の北のほうに骨を埋めた、首の骨はグンマ—島に埋めた
かなりはしょりました
ナンバー1と2の資料を整理することで、見えてくるモノがありますね
主な参考書
日光開山 勝道上人事跡の謎